2011年8月8日月曜日

ガラス層に残る<死の灰>の記憶

第二次世界大戦末期、アメリカ軍が1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島市に、3日後の8月9日午前11時02分、こんどは長崎市に原子爆弾を投下した。当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が、長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死亡した。アメリカ軍は人類史上例のない最悪の大量破壊兵器を使用したのである。

人類初の原爆実験「マンハッタン計画」を成功させ、原爆の父となったユリウス・ロベルト・オッペンハイマー博士は、ロチェスター大学の講義で「アラモゴードでの原爆実験が本当に世界初なのか?」という質問を受けた際、「ああ、近現代においては初めてだろう」と、意味深な言葉を残している。

実は、古代に核戦争(爆発)が起こったことを示唆する痕跡がある。米マサチューセッツ工科大学卒のエンジニア、アルピオン・W・ハートがアフリカ内地における開発プロジェクトを任命された際、リビア砂漠で南北に130㌔、東西に50㌔のエリア内に半透明黄緑色のガラス層を発見した。それから数十年後、彼は人類初の原爆実験が行われたニューメキシコの砂漠を歩いた際、リビア砂漠で見たものとまったく同じ光景を見た。それは爆発の高熱にさらされた砂漠の砂が、瞬時に溶解して緑色のガラスに変化したものだったのだ。だとすれば、彼が目のあたりにしたリビア砂漠のガラス層は、古代に核戦争(爆発)なり核実験があったことを示唆せずにはおかなかったのである。

現実に、古代核戦争(爆発)を示唆する遺跡がある。代表的なのが、現在のパキスタン南部に位置するハラッパー遺跡、そしてモヘンジョダロ遺跡だ。同遺跡で調査に当たったロシアの科学者が、人骨群の一部から通常の50倍にのぼる放射能を検出。さらに町からは、瞬間的な高熱を浴び、溶解してガラス化した壺の欠片やレンガの破片が大量に見つかっている。核爆発が起こったとしか思えない光景がここにも広がっていたのだ。そしてまた、インドのムンバイ付近からは大量のクレーター跡も発見されている。最大のものは直径約2.1㌔にのぼり、年代は約5万年前に遡る。だが奇妙なことに、隕石は一切発見されず、巨大なクレーターのみがそこに残っている。同クレーターからも、やはりガラス質の地表、そして<瞬間的な高熱を浴びた>跡が発見されているのである。


インドの神話、「マハーバラタ」「ラーマーヤナ」「リグ・ヴェーダ」は、太古に起きた大戦争の様子が伝えられており、ミサイルを思わせる武器や核戦争と思わせる描写が随所に挿入されている。


これらは古代人の想像の産物なのだろうか。古代に起きた核爆発らしき痕跡が世界各地に残っているのはなぜだろう。では古代において核戦争が起こっていたとしたら、それを起こしたのは、いったい誰なのか?確かなことは、彼らは核というエネルギーを戦争に用いたため、滅びの道を歩んでしまったということである。

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